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​令和元年研究発表大会 特別講演

第2回研究発表大会 令和元年 11月 10日(日)

<特別講演>

講師:伊藤隆(東京大学名誉教授)

演題:「私の見る昭和十二年」

【概要】

123名という大勢の皆様にご参加いただいた第2回研究発表大会において、
東京大学名誉教授の伊藤隆先生に1時間にわたる特別講演をいただきました。

下記に、昭和十二年学会事務局にて要約させていただいた文章を掲載いたします。

<ご講演の様子>

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伊藤先生のご講演 要約

文責:昭和12年学会事務局

 「昭和12年学会」という学会は、狙いが的確で面白いですね。

ある特定の年を設定し、その年の出来事を多角的に考察できる枠組みとなっている昭和12年学会は、様々なファクターを考慮しながら時代の推移を見ることができるため、より理解を高められると思います。

 日本の近現代史を語るうえで、昭和12年という年を選んだところが驚きつつも、納得をした年でもあります。

昭和12年を選んだ理由として、支那事変が大きな理由の一つだと考えられますが、今回は、この年の国際関係を規定したいくつかのファクターを取り出して、日本と世界を描いてみたいと思います。

 支那事変はこの年7月7日の盧溝橋事件が発端とされますが、日中両軍の衝突で簡単に片付けられない複雑な事象です。最近の研究によると、背後に中国共産党やコミンテルンの動きがあることが明らかにされています。彼ら共産主義者やその工作機関は、日本にも、中国にも浸透し、単純に日本と中華民国の二国間の争いとして片付けられません。

 まずは「中国国民党」と「中国共産党」という二つのファクターについて言及します。昭和12年の前年に当たる昭和11年5月に、中国共産党は中国国民党軍から追われて延安へと逃げこむ「長征」が行われました。この背景には、大正14年に中国共産党と中国国民党の間で第一次国共合作が実施された後、孫文の後継者である汪兆銘や蒋介石によって昭和元年から北伐と呼ばれる軍事行動が開始され、昭和3年に北京が陥落するような中国共産党排除の動きが挙げられます。その後も、中国国民党は国内統一よりも先に、全国各地に拠点を築いた中国共産党の討伐を第一の課題とし、昭和5年から9年には五次にわたる掃討戦を実施しました。こうして、中国共産党は主たる拠点を陥落されたため、延安へ逃れる「長征」を実施したのです。

 そうした状況の中で、中国共産党はそれまでの対国民党政策をすべて対日政策へと転換し、中国国民党に対して対日戦線を呼びかけました。その工作もあって昭和11年12月に張学良による蒋介石監禁事件として知られる「西安事件」が起きます。こうした動きの中で発生したのが盧溝橋事件であり、その後、昭和12年9月に第二次国共合作が成立しました。「長征」を経験した中国共産党にとっての起死回生の策が第二次国共合作として結実したと言えます。こうした中国国民党に対する中国共産党の浸透を客観的にみると、盧溝橋事件は中国側の日本に対する挑発であったと言えます。その後は、「中国国民党 対 日本軍」の構図の中で中国共産党が力を蓄え、日本軍が撤退した後、力を温存した中国共産党軍が中国国民党軍を台湾に敗走させました。こうして、後に毛沢東が「日本のおかげで統一できた」といった発言をするような歴史をたどります。

 次に昭和12年のソ連と中国の関係を確認します。支那事変の翌月に中国国民党とソ連が中ソ不可侵条約を結びました。実質的には、ソ連による軍事援助と軍事顧問団派遣です。実は、中国国民党と中国共産党はコミンテルンの指導でできています。そのため、中国国民党と中国共産党はソ連共産党と同じく、党がトップに立って軍や政府を掌握している体制となっており、両者を「異母兄弟」とする見方もあります。こうした中国国民党、中国共産党、ソ連、コミンテルンというファクターが事件の背景にあると言えます。

 次に、中国の問題を語るうえで、昭和6年の満洲事変にも触れないわけにはいきません。

満洲事変は、国際連盟の満洲問題調査会における調査報告書である「リットン報告書」によると、「日本と中国とソ連が錯綜する満洲地域で起こった日中の衝突」です。満洲事変の背景には、ワシントン会議での軍縮や九カ国条約等による東アジアの国際協調路線に対し、リットン報告によるところの「毒々しいまでの排外宣伝」と、「それによる国際協調の障害」がありました。排外宣伝とは、「満洲事変を勃発させようとする雰囲気を醸成する日本製品へのボイコット」や、「教育現場で行われている排外主義的なナショナリズム教育」です。

 このような背景に対してリットンの立場は「欧米諸国と同じように日本も中国の排外主義と共産党の浸透によって被害を被っているため、中国の要求をそのまま呑むわけにはいかない」という立場であり、リットン報告書には、日本の立場を理解し擁護するような内容が含まれています。しかし、九カ国条約に違反して日本が中国利権を拡張したために、満洲国独立は認められません。こうして日本が国際連盟から離脱することになります。この満洲事変においても、様々な事件のファクターを追っていく余地があると思います。

 次に、支那事変が本格的な抗争となった「第二次上海事変」について触れたいと思います。第二次上海事変は、ドイツの軍事顧問によって作られた精鋭の中国国民党軍と日本の少数の陸戦隊が上海にて衝突した事変です。その後、日本軍が首都である南京へ進撃したために日中両軍が「全面戦争」となりました。

 ここで、ドイツについて言及します。第一次国共合作が崩壊してソ連との関係が切れた中国国民党軍に入り込んだのがドイツでした。ドイツの軍事顧問団としてゼークトやファンケルハウゼンなどが送り込まれ、国民革命軍の教育にあたり精鋭を作ります。ドイツにとっては中国の利権獲得という意味もありました。ドイツの軍事顧問団が中国国民党軍をどのように指導したかと申しますと、標的を日本一国に絞り、他の列強とは友好関係を結ぶこと、そして、日本軍との戦闘においては持久戦によって日本軍を苦しめ、そのために日本への憎悪を煽る軍人教育を行いました。また、最新鋭の武器も供給しました。

 ヒトラーが政権を握った後も関係が続き、昭和11年の日独防共協定締結後も引き続き対日用の軍隊構築が続けられ、昭和13年に日本の抗議によってようやく関係が解消しました。しかし、そのころには中国国民党はソ連との関係が復活しており、ソ連の顧問団を受け入れることになります。

 こうしたドイツの対日方針には、ドイツの対日観が関係しております。日本は明治にドイツから多くを学びますが、一方のドイツ皇帝ウィルヘルム二世は人種差別を煽りました。第一次世界大戦では、ドイツは山東半島の青島にある権益のために要塞を築いて難攻不落を誇りましたが、日本がこれを陥落させます。松山収容所に代表されるドイツ軍捕虜への日本による歓待は、日本を劣等と見下していたドイツ人にとって不愉快な出来事でもありました。

 このように、ドイツとの関係も支那事変の重要なファクターと言えます。また、昭和12年以後においても、ドイツは防共協定や三国同盟となる重要なファクターです。ドイツ国内にも様々な勢力がおりますので、今後もドイツをしっかりと分析する必要があります。

 次にアメリカというファクターについて触れたいと思います。アメリカは、戦間期の国際体制の1つであるワシントン体制において中心的存在でした。しかし満洲事変の時はスティムソンドクトリンで日本を非難したものの、石原莞爾が「アメリカは満洲に手を出さない」と確信していた通り、当時のアメリカは満洲に関与できませんでした。要因として、アメリカの経済状態が恐慌の真最中だったことが挙げられますが、アメリカの「孤立主義」も大きな要因として挙げられます。

 アメリカの孤立主義とはどのようなものか、その事例を2つ挙げます。1つ目は、ウィルソン大統領が主導した国際連盟の加盟を、アメリカ上院が否決したことです。2つ目は、昭和8年に当選したルーズベルト大統領が、日独伊を想定した「侵略国家」に対する禁輸措置の権限を大統領に与える法案を議会に提出しますが、議会からは全交戦国に適用することを要求され、結局、選択的禁輸措置が否定され、戦争時は全ての交戦国に対し武器弾薬を供給しない「中立法」が制定されました。

 このようなアメリカの孤立主義の下では、ルーズベルト大統領ができたのは昭和12年10月の隔離演説ぐらいがほとんど唯一でありました。その後も、ルーズベルト大統領は依然として孤立主義からの脱却に向けた努力をしますが実現しません。昭和14年に勃発した欧州戦線に対してもドイツとイギリス両者に武器を供給せず、ルーズベルト大統領が大統領選挙に再選する際は、中立法を守ることを宣言しています。日米開戦の折、日本に真珠湾を攻撃する「最初の一発」を撃たせたのも、アメリカの孤立主義からの脱却のためと言われており、この実証は難しいですが、恐らくそうだろうと考えられます。

 このような日米関係を考える上で、「日米の警戒心」という側面についても触れたいと思います。日露戦争において、アメリカは日本を応援しましたが、同時に白人国であるロシアに勝った日本への警戒心が芽生え、その後のアメリカの政策の一つとなります。第一次世界大戦の戦後秩序を決めるワシントン会議における海軍軍縮は、日本の発展を止めるためという狙いもありました。

 日米の警戒心は、日米戦争不可避論の醸成につながります。まず、アメリカ海軍の対日プランである「オレンジプラン」の存在があげられます。もともとアメリカには日本以外にもプランが存在しましたが、ロシアは日露戦争によって艦隊が無くなり、ドイツは第一次世界大戦で消滅したため相手ではなくなりました。イギリスは同盟国となったためプランが必要なくなり、最後に日本が残ります。オレンジプランは、日本軍を包囲撃滅する作戦案でした。一方、日本では明治40年に帝国国防方針が策定され、アメリカ海軍を待ち構える漸減作戦と最終決戦を想定した計画が立案されました。こうした状況の中で、日米戦争を警戒させる書籍が数えきれないほど出版されます。最初の日米戦記は、明治42年に出版されたホーマー・リーの『無知の勇気』です。

 他にも、大使や公使からの報告や、各国の新聞雑誌に掲載された日米戦争に言及する記事があります。明治40年にアメリカの大西洋艦隊が太平洋に周遊した際、ニューヨークサン紙は「いよいよアメリカ海軍が日本と戦うために太平洋へ」と報じます。また、栗野慎一郎駐仏大使が「フランス外相が、フランス人の10人中9人が日米戦争の不可避を信じている、と述べている。」と報告しています。他にも、フランスの新聞雑誌では、「米海軍が廻航中に日本に襲われ一隻も帰ってこないだろう」といった記事が掲載され、スペイン公使である稲垣満次郎からも、同様の日米戦争論の空気についての報告がありました。

 また、日本の対米感情を悪化させた事件として、「人種差別」の問題が挙げられます。国際連盟の規約について、西園寺全権団が「人種平等」を入れることを提案し、委員会では賛成多数でしたが議長のウィルソン大統領が全会一致でないことを理由に却下しました。また、大正13年に、米連邦議会が日本を含めたアジアからの移民を禁止する法律を通過させました。こうした動きは、昭和天皇独白録の中で、日米戦争の遠因として移民の問題をあげるほど、当時は波紋を呼びました。

 こうした日米の警戒心の中で、アメリカが対日プランを以って海軍軍拡を実施し、日本も対米プランを以って軍拡をします。日本の「八八艦隊構想」は、第一次世界大戦の好景気により豊かになったことで実現しました。この状況下でワシントン会議が開かれ、軍縮が行われます。この時の主要軍艦保有比率は、米英が「5」に対して日本が「3」となりました。この当時、経済状態の指標と共に重要なのが、その国の権威を示す軍艦比率でした。国際連盟の常任理事国である日本の主要軍艦保有比率を見ると、日本は海軍大国になったと言えます。日本は開国から100年足らずでこの地位を獲得しました。

 その一方で、大正昭和のちょうどこの頃から日米両国の知識人にマルクス主義が浸透します。日本は昭和10年までに日本共産党はほとんど解体状態となりますが、アメリカでは共産主義の影響力が強まり、ルーズベルト政権に対して特に影響力を強め、後に日本の占領政策に影響を与えることになります。

 他の列強国というファクターを考えますと、リットンの指摘した通り、英仏にとってのアジアは、日本が攻めてこない前提において、日本と共通の利害がありました。つまり、日本が中国をしっかり抑え込むことで、英仏の権益も守れることになります。しかし、日本が中国で権益を増やすことで英米と対立関係となり、さらに東アジア全体では、オランダのインドネシアやアメリカのフィリピンなどの植民地所有国との対立も顕わになります。このように、欧米列強も昭和12年を考える上で重要な欠かせないファクターであります。

 最後に、日本国内における昭和12年の状況を概観したいと思います。昭和12年は、国内政治においての転機となる時期に当たります。昭和12年の前年である1936年に二・二六事件が起き、眞崎甚三郎や荒木貞夫といった皇道派が排除されました。彼らは「反共かつ北進」を唱えていましたが、彼らに変わって台頭したのが「反共かつ北進ではない(南進)」統制派でした。統制派は反共を主張しますが、共産党から転向したメンバーが約半分を占める「昭和研究会」や「国策研究会」などの政策立案団体と統制主義において波長が合います。同時に革新官僚とも関係が深まっていました。このような中、昭和12年に近衛内閣が成立します。

 また昭和12年という年は、日本が国際的に孤立をした時期です。国際連盟を実際に脱退したのが昭和10年であり、日本が孤立状態へと向かいます。この時期を帝国海軍の立場から見ると、ワシントンとロンドンの軍縮会議における軍艦保有制限が昭和11年に切れるという時期に当たり、日本の海軍力が一番劣勢となる問題がありました。また、帝国陸軍の立場から見ると、仮想敵であるソ連が第二次五か年計画を完成させ、ソ満国境におけるソ連軍の優勢が問題となります。このような日本政治の転機と国際政治の孤立の中で、支那事変が勃発しています。

 こういった昭和12年の国際関係を規定するいくつかのファクターを丹念に研究することで、今後の昭和12年学会の発展を期待しております。

<伊藤先生ご講演 資料>

​伊藤先生がご講演で使用された資料を、会員限定で公開します。

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